反ワーク論についてのお詫び

先日は、差別的なブログ記事およびツイートを発表し、セックスワーカートランスジェンダー、およびそれらの方々に心を寄せる方々等を侮辱し、傷つけてしまい申し訳ありませんでした。どう謝ったところで、傷つけてしまったすべての方に届くとも限らず、届いたところで許してもらえるとも思っておらず、明確に傷つけた方々への直接の謝罪も、先方のご負担を考えると難しいと思っています。差別とはそういうもので、取返しのつかないことをしてしまいました。心よりお詫び申し上げます。

私が差別主義者であるかというと、もちろんそうなりたくないとは思っており、また、差別主義者ではないと思われていたと思います。このことは、私を信頼して記事を読んでくださった方も多かったこと、そしてそれゆえの恐怖を思うと、発言自体の悪質さを更に増すものだったと思います。

記事を好意的に読んでくださった方もいらっしゃいましたが、そうした方々まで批判されてしまったことも申し訳ないと思っています。

私が何を間違えたかというと、私が自身の特権性に無自覚で、「巨大な構造批判のためであっても、不当に扱われてきた方(便宜上、以下「弱者」と呼びます)を踏んではいけない」ということを失念していたこと、弱者性を比較したり、勝手に評したり、弱者を思いやれと他の弱者にも強要したことだと思っています。認識が不足していたらすみません。

この文章を考えているとき、私は路上生活者の支援をされている方の言説を目にしました。深夜、路上生活者にむけて、中学生たちがレンガなどを投げつけてくるということがあったが、その襲撃に怯える路上生活者自身が、夜中の1時2時に外に出る中学生の居場所のなさに思いを馳せたというものです。すごいことだと思いました。加害者が被害者性を持ちうるということはプリズンサークルという映画・書籍で学んでいたのですが、続編ともいえる書籍「根っからの悪人っているの?」では、なんとバスジャックした少年に刺されている瞬間ですら少年を思いやった女性が話をしてくれています。こんなことも、できたら良いですが、「しろ」と人に言えることではないと思います。ここではこれらを例え話として弱者が持ちうる暴力性を語りたいわけではありません。私はこの話を経て、弱者とは「今刺されている人」であること、その方々に向け上げる第一声が「一緒に構造批判をしよう」になるわけもないことに思い至ることができました。

また、私の元の記事に救われたと思ってくださった方につきましても、いわゆるトランスヘイターばかりでなく、救われなくてはいけない状況にある方が多くいらしたと知ることができました。ですが、そのような方々にまで、私の未熟さゆえに、かえってご迷惑をおかけして申し訳ありません。

このように謝罪の念を、今は抱いております。これから学ぶにつれ、もっと反省、謝罪すべき点が出てくるかもしれません。もっと勉強しなければならないことも見えてくるかと思います。その都度よく考え、新たに人を傷つけることがないように慎重に対応していかねばと思っております。

改めまして、この度は、多くの方を傷つけ、分断を深めてしまい、本当に申し訳ありませんでした。