「識字から平和を考える」に参加して

川崎市で行われた講演に参加してのメモです。

 

【参加動機】
川崎に住む在日コリアン一世を題材にした映画「アリラン・ラプソディ」を視聴し、パンフレットを読んで、識字活動についての興味が高まっていたところでした。ハルモニ(おばあさん)が自らの体験を語れるようになった背景には識字活動が関係している、まずは鉛筆の先に力を入れる練習から始めた、「自分の名前を書けないなんてばかでしょう」……。
元々は在日一世に非識字者がいるという知識すらありませんでしたが、「識字から平和を考える」というタイトルにも興味を持ちました。

【講演内容】(記憶違いのこともあるかと思います)
・講師は何と、30歳前後と思われる若い女性2人。
 おひとりは大学の研究がきっかけで関わりだした日本人(今日のメイン講師)。
 おひとりは在日コリアン3世。
参加者側の席に、識字活動に30年以上携わるという日本人女性もいらした。
司会は会場となった川崎のふれあい館の(?)男性職員。

●ウリマダンの概要
・識字活動を行う「ウリマダン」は、1988年からの識字学級を前身としつつ、2015年に高齢者事業化。
 朝鮮語で「私たちの広場」
 作文・絵・作品作り+経験の語り継ぎ
 題材は何でもあり。時事についても語る。
 発音に自信がない、読み書きに自信がない、漢字は苦手、といった方がいる。
・一方、「トラヂ会」というものもあり、1997年に発足。
 体操・昼食・ダンス・カラオケ…。こちらの方が参加者が多いとのこと。
 初めて見学したときは、在日一世といった歴史の暗さからは想像もできないほどのパワーに圧倒された。日本人よりずっと元気に歌い、踊り、言い合いをしていた。
「なんだ元気なんだね」と思う人もいるかもしれないが、それはハルモニの一面である。

●「共同学習者」とは
・ウリマダンの活動は、「学習者」と「共同学習者」が一対一、が基本。
 「学習者」は在日コリアン1世、2世、ニューカマー韓国人など。
 ※ニューカマーとは概ね80年代以降に日本に在留するようになった外国人を指す。
 ニューといっても1990年から住んでいても既に30年以上経つことになる。
 「共同学習者」はふれあい館職員、ボランティア。国内外からZOOM参加も可能とのこと。
「共同学習者」とは、一方的に日本語を教える存在ではなく、「共に学ぶ」存在として位置づけられている。
ふれあい館30周年事業報告書より、識字学級の趣旨が共有される。
 共同学習者と識字生は深く対話を進め、共に外国人市民の歴史や文化を学び、識字生が民族的自覚と誇りを持って自己を確立し、市民として日本人と連帯しながら生活できることを目指す…と理解しました。
・作文を書くプログラム
 共同学習者が作文のテーマを提示し、学習者に発話を促す。
 対話の中で作文に書く内容を決める。学習者が作文を書く。

●ウリマダンの経緯
 1988年 識字学級開設
 識字経験のない在日コリアン一世女性の学習者
 背景:植民地政策+儒教ジェンダー観の相互作用
 「女に学問はいらない」「女が勉強すると生意気になる」
・氏名や住所、ひらがな、カタカナから文字を覚える
・1990年の国際識字年を機に他の識字学級との交流増加
 +無年金状態に対する福祉手当要求運動
 →共同学習者の理念、自主教材の政策
 ハルモニたちが経験を語り始める
・2004年 識字学級からウリハッキョ(私たちの学校)が独立
 識字学級に若いニューカマーの学習者が増加
 高齢者を対象とした識字学級が独立
・絵を描く活動の開始 絵を描いたこともない学習者の存在
・「キミ子」方式 絵を描いたことのない人が描けるよう考案された方法
・2015年 ウリマダンに名前を変更し、高齢者事業化
 車での送迎も開始。二世やニューカマーの増加。経験の語り継ぎを重視。
 →ニーズの個別化、多様化。生活史の記録・発信。料理、旅行、寄せ書き…
ヘイトスピーチへのカウンターや戦争反対。

●作品紹介 「我慢」をどう感じるか
・作文、絵、寄せ書き、自分の年表などがあるが、
 あるひとつの作文を紹介。タイトルは「我慢がぷらすになる」。
 内容は、働き始めたときは我慢ができなくて仕事をすぐやめていたが、生きるために我慢するようになったこと。気を付けたこと、大変だったこと。やさしくしてくれた人も、きびしい人も、皆先生だということ。そのおかげで今は何も持ってなくてもとても幸せです。と終わる。
 この作文を読んで何を感じるか。これだけ読めば、ただの作文かもしれない。この日のテーマは、「次世代に伝えたいこと」だった。講師が共同学習者として付き合ってきた中で、その方の壮絶な人生を知った上で、作文を書くための対話をし、「我慢がプラスになる」と言われたとき、「そうじゃない、我慢が良いことって言ってほしくない」と言いたくなった。しかしこちらの意見を押し付けて違う内容にしてもらうわけにはいかず、とても葛藤があった。その後も、我慢、ということについてずっと考えている。この方はいわゆるニューカマーのコリアンで、日本に来て30年。こどもの頃に病気をし、学習の機会がなかった。お子さんが小さいときから、子と離れ、ひとり泊まり込みで働き、休みもなく、様々な国を転々とした。治安の悪い国で突然店のオーナーを任されたこともある。韓国に戻ってきて自分の店を持ったとき、長年気を張ってきたことから顔がこわばり、接客ができないことに気づいた。その後日本人の男性を紹介され、1990年頃から日本に住むことになった。手に震えがあり、一度ウリマダンをお休みしていたが、2019年に本が出され、自分の作品が大事にされていたことを知り、復帰された。

(30年識字活動に携わる方からの補足)
この方は、私も長い付き合いで、夜間学校の卒業式に出るような間柄だったのに、外国で働いていたということは、ちらっと話していた程度だった。彼女(講師)が、(生い立ちを詳しく聞ける)関係を築いた。時を待つ、ということもある。

(講演後、参加者からの意見)
講演中ずっと、「我慢」に悩み続けているという講師の気持ちを考えてしまった。
きっと受け身のがまんじゃなかったのだと思う。主体的な何かが見つかっていたから言っているんじゃないかと思った。
(講師から)
確かに、この方は何事も前向きに捉える強さがある。

●ハルモニへの聞き取り映像
・映像で、戦後、一度韓国に帰ろうとしたときのことを語るハルモニ
下関で2泊することになった。ゴザだけ敷いてあるようなところ。
寝られない。こうやって(膝を抱えて)座ってた。
食べ物は(出航を待つ人たち向けの屋台で)売ってた。
船は小さい。(船の中ではどんな話をしたんですか?)話をするところではない。
→こうした話も、思い出すだけでつらいので普段は話したがらないこと。
 30年近い付き合いの共同学習者だから、記録用にと話してくれたもの。


●三世の共同学習者から
なぜ共同学習者を続けているか、とよく言われる。
この機会に考えてみた。
自分の祖父母は川崎にいたが、公害がひどく、こどものために品川に住み、川崎に通勤していた。その後、川崎に戻っていた。桜本のことはなんとなく知っていた。
花はんめ(アリランラプソディと同じ金聖雄監督)のDVDを持っている人いませんか…というところから桜本とご縁が繋がった。
共同学習者を続けているのは、ハルモニといると、本当の自分でいられるような気がするから。自分を丸ごと肯定してくれて、ハルモニといられることが喜び。本当に存在そのものをかわいがってくれる。ルーツのことも、ヘイトのことも、恋愛や結婚のことも、友達と違って何でも話せる。今なおハルモニたちが声をあげなければいけないって何?と自分は思うが、ハルモニたちは全然諦めていない。ヘイトを見て無力感を感じても、やめない。その姿に力をもらえる。以前は、自分だけが無力感を感じている、苦しみを一方的に受け続けている、と思っていた。でもハルモニと出会っ
て、自分もハルモニを通して社会に影響を与えられると思うことができた。こんなところに生まれたくなかったと思っていたけれど、戦う中で、楽しんで笑って、互いにサポートする。福島、水俣パレスチナウクライナ、沖縄、いろんな関わりができた。ハルモニの影響を受けて生きている。
プライベートでもめちゃくちゃ遊びに行っている。一緒に旅行したり、温泉に行ったり、家に遊びに行ったり。

(それに対し、先輩の共同学習者から)
昔はハルモニの数も多かったし、とにかくえこひいきがあってはいけないと、教室以外での交流を控えていた。特定のハルモニと外で会うならばとても気を使った。代表の許可をもらっていたし、それも稀なことだった。最近は若い子に影響されて、たくさん電話で話すようになり、楽しい。ただ、多分、昔は生活に困窮されている方は家に来てほしくない方もいたと思う。

(今日のメイン講師から)
大学院で社会学を専攻し、最初はトラヂの会に行き卒論の題材とした。
週に一回の活動だが、忙しいとき、元気がないときは欠席してもよく、続けやすいと感じる。
でも、自分がペアになっているニューカマーの方(↑の作文の作者)が、日本語で日記を書いてきてくれて、それのチェックをお願いされる。作文は直さなくてよいものだが、日記などは依頼があれば修正する。よかったですね、といった感想を書いて返している。その日記がたまってしまうのもあり、来なきゃという気持ちになる。


【質疑応答】(休憩中、紙に書いて渡す方式)

Q ハルモニ(おばあさん)でなく、ハラボジ(おじいさん)はどうしていないの?亡くなっている?識字者?
A ひとつは、パートナーのお世話が終わったから来れたおばあちゃんたちであること。
 もうひとつは、男性は学校に行けた可能性が高いこと。女は家にいた。
女が勉強すると生意気になる、と親からも言われていた、ということ。
 結局伝聞でしか一世の男性の話は聞けなかったということでもある。
 兄は学校に行っていたというハルモニもおり、「お前にも字を教えてあげればよかった」と言われたとのこと。

Q 子を韓国に残し、ひとり命からがら日本に渡った、というハルモニが映画に出てきたが、そうした人は多いのか。
映画では、子はどうも消息不明なように感じ、衝撃を受けた。
A 国をまたいで子と別れた時期があるハルモニはたくさんいると思う。
 また、たとえ一緒にいたとしても、ずーーーーっと働かないと生きていけないから子と溝ができたという話もよくきく。
 娘が韓国で離婚し、孫のみ日本で育てた、とかもある。

Q 識字を通して自身の経験を話せるようになったと知り驚いた。
 ハルモニたちが自信を得る過程について詳しく知りたい。
A  (先輩の共同学習者から)
 ずっと聞こえないことにされていた声が、共同学習者に「それはすごい話ですよ、ぜひ聞かせてください」と言われれ、取材を受けるようにもなり、話してもいいんだ、と思える。30年その繰り返しだった。
ここでの方式を見出すには時間がかかってしまった。ひらがな、カタカナ、少しずつ漢字、そういった、日本のこどもにするような方法では意味がないと、やっとわかった。字は少しでも獲得したら、あとは自分の想いを書いてもらうこと。抑圧から解放されること。書けないと言われたら、こう書き出してみてくださいと言うこと。自分で自分のことを書き留める。できるようになる過程で、人に認められた、意味があった、と思える。作文はそういう積み重ね。自分の力で少しずつ書き留めることで、自信を持つ。その過程を共有できたこと、素敵な時を過ごさせてもらったと思う
そして、ありとあらゆることを話題に。お年寄りだから、といった制限は何もない。ウクライナのこととか、ひとことでも、自分の想いを書き残すこと。


(講師から)
識字活動がエンパワメントであることは事実かもしれないが、ハルモニたちの多くは、作文や絵について、自信満々というわけではない。不安な方が多い。言いにくいことだが、10代のときに学校に行っていた人と、それがなかった人が80代になって何かを学ぶときのスピードというのは、全くちがう。とりもどせない、ことだと思う。年をとってからできることは限られている。

Q 共同学習者の方は何がきっかけで始められるものですか
A 研究・調査がきっかけで、一段落してからも続ける、という人もいる。
 元々日本語教育に関心があるという方でも、合わない方もいる。

Q ウリマダンの今後は
A (司会の職員より)
一世には、限られた時間の中で、後悔してほしくないということ。
あとは、ニューカマーの高齢期をどう支えるか。
アルツハイマー、言語の問題、医療ケアとか、活動を広げていきたい。

Q みなさんとても聞き上手なのですね。
A 私って聞き上手、と思っている共同学習者はいない。
 いつも、もっとああ聞けばよかった、こういうことを言いたかったんじゃないかな、と思っている。
(先輩の共同学習者から)
毎回記録をつけているが、毎回、あそこでもっと優しい言葉をかければよかったとか、反省がある。

(参加者から)
自分は九州在住だが、ウトロの方に手紙を書こうというとき、一回だけ参加したことがある。そのとき、講師の三世の方が、ハルモニたちから「うちにも来てよ」とひっぱりだこだったのを覚えている。(※本人は覚えがないとのこと)

(司会の職員から)
本日は、読む、書く、共に生きる、というウリマダンの活動について、その余白の部分をお伝えできたのかなと思います。ありがとうございました。

(帰り道に会った参加者のひとり)
川崎駅前で反ヘイトの読書会を毎週している。360回目(※回数うろ覚え)だった。
駅前で読書会をしてくれているから安心して買い物に行ける、とハルモニに言われたことがあるそう。

 


【感想】
もったいないことに、参加者は10人もいなかったのですが、生々しい、本などからは得られない知見が得られたと感じました。(本ももっと読むべきですが…)

歴史上、こんなひどいことがあったが、今は改善されました。
というできごとの一つにすぎなかった在日コリアンの話が、何も終わっておらず、そして地続きであることに、いつも愕然とします。歴史を知り、構造を知る度に、ああ勉強になった、ではなく、何をしなければならないだろう、と思います。それってまずは政権批判だと思ってしまうのですけど(しています)、そこは時にオブラートに包む方が良いのかもしれないですね。

●連累、だけではない
私は日本人というマジョリティとして、在日コリアンに対し、罪を償わなければならないような気持ちになることがあります。これについては、「連累」という言葉で一応の説明がつけられます。

“「連累」とは以下のような状況を指す。わたしは直接に土地を収奪しなかったかもしれないが、その盗まれた土地の上に住む。わたしたちは虐殺を実際に行わなかったかもしれないが、虐殺の記憶を抹殺するプロセスに関与する。わたしは「他者」を具体的に迫害しなかったかもしれないが、正当な対応がなされていない過去の迫害によって受益した社会に生きている。(テッサ・モーリス=スズキ『批判的想像力のために』平凡社ライブラリーより抜粋)”

しかし、私は女性としては儒教ジェンダー観……というか家父長制の犠牲者でもあります。女性に学習の機会を与えなかった罪も、女性の私が償わなければならないのか。答えは、贖罪の気持ちではなく、やはり「共に学」ばなければならない、と思います。
この考えは、あらゆる支援者に必要とされつつある「支援ではない」という考え方や、伴走型支援などに通じる、先駆けだったのかなと思いました。

世代が違う自分が償う理由などない…という気持ちもわかります。日本の方がまだ住みやすいと思って、好きで来たのだろう。日本で勉強できてよかったな。と思う人もいるでしょう。高校生までの私ならそう思ったと思いますし、それ以上の侮蔑的な言葉が出てくる人は…その人もまた過酷な環境下にある、もしくは大事にされてこなかった方、だとは思います。ただ、私にはこんな穏やかな老後は訪れないだろう…とも思います。歴史上、稀有に輝く光のような時間が桜本にはありますね…。

●誰が発した言葉か。言葉は独立しない?
印象的だったのは、作文の「がまん」についての終わらない葛藤と、「取り戻せないこと」という言葉。その重みに打ちのめされます。
私も映画のグッズ(てぬぐい)にも記されることとなった「にんげんはつよい」という言葉がずっと引っかかっていました。やはり言葉だけを見ると、それでいいのか、という気持ちになります。弱い者は死んでしまったのではないか、とか。そうした私の感想は、どこまでいっても薄っぺらく、特権にまみれた者の、軽い考えだとも感じます。行動しない者の言葉は軽い……。(私が行動していること、といえば、鶏を飼っていることくらいですね、循環型社会の実践、工場畜産という暴力への抵抗…)

でも、言葉は言葉として評価すべきであり、作品と作者は切り離される、当事者性であるとか、誰が言っているかは関係ないのではないか、という気持ちもいまだにあるのです。子育てについて意見するときに、「私には子どもが三人いますが」という前置きが必要か、必要ではない、誰にとっても望ましい社会の在り方を模索すべきだ、と……ずっと思ってきたので。だから、がまんが美徳の世の中じゃだめなんだよ!とか、人間は強い、じゃないんだよ!と思ってしまう自分が、今もいます。理解できても受入れられないような、理解ができていないような、優しさや想像力に欠けているような…自分の至らなさ、課題を感じるところです。

●マジョリティの選択が世界を変える
ただ、私はこれからも、マイノリティの話だけではなく、マイノリティと生きるマジョリティの話が聞きたいし、広めたいと思います。
一世の苦難、二世の葛藤と共にあろうと、意思をもって、わざわざ選択したマジョリティがいる。この、「マジョリティの選択」以外に、世界を良くする方法があるわけがないから、です。そして、強者性と弱者性は互いに入り組んでいるものです。誰もが人を頼りながら、あるときは自身の強者性を見つめ、自分にできることをする。敵は、つきつめれば資本主義や能力主義や家父長制かとも思いますが、つまり己の中にもあり、並行して政治を変えていきたいです。パレスチナを見ても日本を見ても、絶望に飲み込まれそうになりますが。


【雑談】
●読み書きと聞く話す
長年、「話せるけど読み書きはできない」という状態を想像することが難しいと感じていました。英語も、どちらかといえば読む方が簡単ですし、中国語ももちろんそうでした。しかしBTSに出会い、日々韓国語を聞き、学んでみると、がぜん、読み書きの難しさを実感したところでもありました。母語でないときのハングルの読めなさってすごいですよね。読むスピードが上がる日が来るのかなと思います。でもこの私の(遅いと感じている)学習スピードも、特権にまみれていたんですね。

●「自分の名前を書けないなんてばかでしょう」
いろんなニュアンスがありますが、「自分ってばかだな」と思ったことのない人ってあまりいないと思います。例えば中学校のテストの点が1位でも最下位でも真ん中くらいでも、それぞれに思うことかと思います。努力することができる特権性とか、地頭が良いとか、勉強だけできてもだめだとか、いろんな言葉が溢れていますが、そうしたものをすっ飛ばす話です。「もし自分の名前が書けなかったら自分はどう思うだろうか」と想像したことなんかなかった。そしてもちろん、「自分の名前が書けないこと」が「ばか」なわけがない。それなのに、市役所の職員にばかにされたことがあると。……。
文字でできた社会は、非識字者を世界から遠ざけるが、その者が文字を獲得し言葉を発したとき、「あるべき世界」 が示される。(※私による要約)
というのは次の講義でした(中村一成さん)。難しい話でしたが、ブログに書こうかな、書いても仕方ないかな、アリランラプソディのパンフを読んでください…。中村さん、本が出るそうなので、出たら読んで紹介します。既刊もどれもおもしろそうですね。

●こどもが存在する国
当日の会場、5分前に会場に入ると、講師も参加者も椅子に座っていましたが、女の子が3人ほど走り回り、床に寝そべり、騒いでいました。定刻になると、司会の職員の男性が「こどもたちがどうしても話したいことがあるそうなので、最初に話してもらいます」と言い、ひとりの女の子(小4だそうです)がひねくれた自己紹介をし、ふれあい館の紹介を頼まれると「(ふれあい館は)うるさい!」と言っていました。講師の女性らは大いに誉めた上で退室を促し、私の隣の席の男性はずっと満面の笑みで相槌をうっていました。
私は、ああ、これだ、と思いました。
人権が尊重される場では、こどももまた尊重されるのだと。
先日、代々木の東京ジャーミイパレスチナバザーに行ったときも、神聖な祈りの場である荘厳なモスクの中(女性は髪を隠すことを求められる)で、小さいこどもたちが大声で騒ぎ、駆け回っていましたが、誰も止める人はいませんでした。
お祈りをしている人もたくさんいるのに、です。
そうだよね、大人が祈っている間、友達とおしゃべりしている間、こどもは遊んでいていいよね、靴脱いであがる絨毯の広場だもんね。どんなに大声でも、不思議と祈りの邪魔にならないんだろうな……ならないじゃん!と気付きました。そして、日本が失ったものってこれだよね、とも思いました。
私はわりとこどもが苦手で、3歳でも小学校高学年でも話をするのに苦手意識がありますし、公共の場では(乳児でもない限り)わりと静かにしてほしいと思う方、だと思います。日本の政治、教育、空気感が私の血肉となり価値観を形成してきたのかな(人のせい)。でも、このこどもに対する絶対的な肯定感、大人として正しいな〜、と川崎で反省しました。異文化体験、カルチャーショック。そして、こどもがこどもとして各々の母語を学んで遊べる国では、識字の問題もなく、少子化もなく、平和の礎となるのでしょう。